生も死もペテンだ

「推し」という言葉を普段あんまり使わないな。
きらいとかではなく、自分にはピンとこないというのが正しい。
しっくりこない言葉は他にもたくさんある。「沼」とか「尊い」とか、最近では「健康に良い」や「○○からしか得られない栄養素がある」というのを聞くこともある。
自分がアイドルをよくみていた頃、「推し」という言葉をよく耳にするようになった。元々はドルヲタの間で使われていたが、だんだん他の界隈のみんなたちにも広がっていったような気がする。
「見栄えが良く」、「使いがっての良い」言葉だと思う。
ジャニーズは「担当」、ヴィジュアル系は「本命」だけど、みんな段々どこもかしこも「推し」という言葉を使うようになっている気がする。
昔のおたくは「嫁」だったけど今はもう使わないのかもしれない。なんというか、「そういう時代」じゃなくなった。

感覚としてなんとなく「分かる」んだけど、自分の生活の中であんまりピンと来る瞬間がない。
相手とか状況に合わせて使うことはあれど、自ら使うことにためらいがある。使う時はいつも誰かの何かを拝借している感じがする。
そこにある熱量の方向性みたいなものが、なんとなく自分のそれと合わない気がして。
ただ、他人とのコミュニケーションを円滑にする上で使わざるを得ないときがある。

Vtuber の推しは誰か?』と聞かれて、「推し……というかまあよく見る人はいますね、まあでもおすすめとはまた違いますけど」とかなんとか早口で言って、いつもお茶を濁している。
面倒くさいオタクだ。


黛灰について私がどう思っているのかとか、インターネットにあんまり書いたことがない。
あ、黛灰っていうのは、そういう名前のVTuberがいるんですけど。まあ……推しっていうか、よく見てますね。
配信みて具体的に私が何をどう思っててとか、細かく言及をしない。友人に話すこともほとんどない。
他人とそれを共有することにあんまり興味がないし、自分の考えを人に言ったところで他人が私のそれをおもしろいとは思えない気がするし。まあ聞かれないし、言わなかっただけ。
『推し』ってきかれて、黛灰。って言えば良いんだと思うんだけど、 やっぱり自分のなかでしっくりこなくて、「推し……というかまあよく見る人ではありますね」。とかなんとか言ってしまう。

この1年くらいは、EX パートがずっと続いていたような感じ。
人生は続いているということ、VtuberVtuberであるということ。それらがエンドロール後もずっと続いているってことが、自分の中で曖昧なまま、ぼんやりと「おまけの一日」が過ぎていく感じ。

1ヶ月前に、活動を停止すると言われて、なんというかやっぱり「ぼんやり」した。いや、ぼんやりならこの1年ずっとしていたんだけど、それとはまた別の「ぼんやり」っていうか。
活動が停止することに対しては何も不思議はなく、というか、初めから彼には「終わり」が見えていたから、「黛灰の物語」が進むと同時に、私は彼がいなくなるということに対してそれなりに長い時間をかけて折り合いを付け初めていたし、彼のエンドロールが一体どんなものなのかと待ちわびていて、だから、それは、それで、私は、その……
なんつったらいーかな
書いた方が良い気がして今こうやって書いてるんだけども、なんというか、そういう自分の感情というのは時間がたたないとよく分からなかったりするのかもしれない。


以前はよくこのブログでライヴの感想をたくさん書き残していた。
他人にとってはとるに足らないようなことを自分のためにせっせと書き残していた。書かずにはいられなかった。
4年前に、すきなバンドが解散したときも、同じようにたくさんのことを自分のために書いた。それらをたまに見返しては確かに存在していた時間についてただ確認をすることもある。
解散後に新しく組んだバンドの曲もすきだ、ライヴも楽しかった。この先余程のことがなければ「本命麺」を嫌いになることもないと思う。
けれども、私はいまだに4年前の「ぼんやり」の中にずっと片足を突っ込んでいるなと思うことがある。


黛灰についても、もっと書いておけば良かったんだろうか。
なんつうかそういうのダルくてさ。
気が向いたら絵を描いていたけれど、なんつうかそれも自分だけで完結するような気がしていたんだ。
そもそもあのとき、「Twitterに載せなよ~」と言われなかったら、そしてなんとなくそれが習慣にならなかったら、絵を描くことの楽しさも忘れたままだったかもしれない。
けれども、ライヴの感想のように、絵だけではなくてもっと言葉でも書き残しておいた方が本当は良かったんだろうか。


人が彼についてどう思っているかとか、いわゆる「物語の考察」だとかをあんまり知りたいとも思わなかった。
インターネットに溢れる「考察」という名の他人の妄想を読むのが私はあんまり得意ではないし、逆に自分の考えを誰かに披露する気にもなれない。自分の考えを書くことによって誰かが傷付く可能性があるということや、そういうことを考えなければならないこと自体もめんどくせえなと思う。
「インターネット」に「感情」を書くのは難しい。インターネットでなくとも難しい。他人に伝えられる能力が今の私にはない。あったとして伝わる保証がない。そしてそこに労力を割く必要がない。なぜなら他人に伝える気がそもそも無い。
ないのに、「書く」だけでそれは「伝えること」と同意になってしまう。ただ書いている、描いているだけなのに。


コメントをしない、リプライもしない、お手紙も出さない。言及もせず、誰かと共有もしない。
「次元」という確実な壁。
「無理のない趣味」という自ら置いた距離感の気楽さ。
天井を見たり、眠れない夜に適当なマンガを読む時間の代わりにたまに絵を描いているだけ。
自分の中のそれらを無理に言葉にすることはない。それらは「生活」であり続けるべきだ。
「推し」という言葉に当てはめてしまうことを嫌がるほどに気に入ってしまうべきではない。


「黛灰の選択」がよく分かる。よく分かるからこそ全然分からないとも思う。
『黛灰』が、ただの「仕事」ではなくなってしまったように、私もまたそれらが「生活」以上のものになってしまったのだろう。
居心地が悪い。


そういうことを、今日くらいはインターネットに書いても良いかもなと思って書いた。
そういう自分の気まぐれにきっと後悔する。
これもまたインターネットの1ページだ。

おもしろかったマンガ思い出せるだけ書くやつ

半年に1回のペースはやっぱり何も思い出せないので本当は月イチくらいで感想を書いていきたいとn回言っているコーナー
とりあえず今思い出せるものだけざっと、、、と言ってまた半年後に同じことを言うんだきっと。

ホテル・メッツァペウラへようこそ

おもしろいけどビザがきれたら終わっちゃうのかな
おもしろいマンガ、ずっとやっていろよ
ボイラー室で水浸しになりながら服を汚したことをあやまってるコマが好き
マンガに無駄がなさ過ぎる
ハルタって必要以上に絵がうまくてマンガが上手な知らない人がどんどん出てくるけどマジでなんなんだ

アルティスト 8

特にいうことないけど最初自分が想像していたものとはだいぶ違うマンガになってそこがまたおもしろくて良かった。

血の轍 13

ここのとこずっとおもしろい。巻を追う毎におもしろくなっててすごい。
最初の方結構だるかったりしたんだけど、こういう方向になると思わなかった。
というかここまで話が、人生単位で進むと思わなかったのでそこが良い。

雪と墨

ちょっと前に読んだヤツ。サイエンス・ファンタジー。すごくおもしろかった。
設定がまず良いんだけどそれがさらっと始まるのでもっとさらっとした話かと思ったら謎がどんどん出てくる感じもおもしろい。
読んでいくとそれがなるほどになるのも面白い。
さら~~っとして見えるんだけどまあまあ重い話なのも良い。不思議な感触。
大体職業がよく分からない。話しかけられたくない人の代わりに話しかけられる代行の仕事とかいう分かるけど分からない仕事、良い。
ちょうどよいSF感って感じだけどがっつりSFなのが不思議だなあ、すきなやつで良かった。
2巻しかないと思ったら全然続くっぽいのでほっとした。続きも楽しみ。
表紙のデザイン綺麗。だが紙が全体的に悪いのが残念。高くて白い紙で読みたい。


僕らのミクロな終末

終末に「2人」じゃなくてパーティーがどんどん増えていく感じが丁度良く間が抜けている感じで良かった。でもちゃんと終末をしていたし2人は2人だった。
マンガ的都合の良さやファンタジーも不自然に感じなくてバランスが良い。絵もていねいですき。表紙も綺麗!


求めてやまない

知らなかったけどこの人のマンガぜんぶおもしろい!
辰巳がファンタジーじゃなくマジの変な人なのが良かった。人間味がなさ過ぎるけど人間味がなぜかあって良かった。
人として何かが欠けている人物が基本的にすきなんだけどその欠け方がユニークというか。
全体的にギャグセンスとかゆるい空気の作り方が好み。絵も好み!

神様お願い

久々にこういう質感のマンガを読んだ。良い。
帯で押見くんが「とにかく落ち着く」って書いてて、それなんだよな。
思春期がどうとか学校がどうみたいなのはどうでも良くてそこに居心地の悪さを不思議と感じないのは、あくまで「えっちなマンガ」だからな様な気がする。
あくまで、「こういうの好きなんだろうなあ」みたいな。そこが「落ち着く」の要員な気がする。
衝動というよりも「好き」で描いてる感じ。という印象を受けた。
表紙はあんまり気に入ってないけど各扉絵の文字の入り方がかっこいい。

ヒッツ 4

これもどんどんおもろくなってくな。
石田君の興奮した顔、沢先生のこの丁寧な絵で描かれるとシュールで良すぎる。
好きかどうかも分からない人間と付き合うナツキがやばすぎるんだけど女の子としてかわいすぎる。すきだ。
睡眠薬で戦う2人、興奮する石田の回おもしろすぎる。同時にいろんなことが起こりすぎるヨクサルのこういうところが好きすぎる。

ヨモツヘグイ 1

硬派っていう印象。悪くないけどこの感じで収まっちゃうなら続きは良いかな。
連載でやってたら読むけどタイプ。でもまあ良かった。絵も良かった。ただもうちょっとはみだしてくれるともっと面白くなる感じがする。

泥濘の食卓

こういういわゆる「歪んだ人間」しかでてこないマンガは鼻につくことが多いけどちゃんとおもしろく読めたので良かったです。

異世界の沙汰は社畜次第

なろう原作社畜BL。
原作があるので軸がしっかりしてて読んでておもしろかった。
理由があって呼ばれたけど主人公はおまけなので無用なのが良いね。無用だけど社畜だから仕事を作っていくの、順当におもしろい。セックスに理由があるのも良いね。BLとして意味があるのが良いね。続きがたのしみ。

スキップとローファー 7

7巻良かったな。基本的に主人公が全然すきになれないのだがゆづちゃんがすきなのでこの巻はおもしろかった。
話もちょっとずつ動いてて良かった。

推しの肌が荒れた

もぐこんさんの商業初作品集。
ほどよくファンタジーなのが良くて、ほどよくぎりぎり不幸にならない感じが良いよね。
表紙はあんまりもぐこん感がない気がするがインパクトはある気はする。

夕方ジェネレーション

子供のころ
週末になると車で1時間ほどかけておばあちゃんちに連れていかれた。
車に乗るのがすきで、照明を3段目にしたみたいな薄暗い中に音楽やラジオを流しながら耳半分に景色をみたりうとうとしていくのがすきで、ラジオっていうのは全然おもしろくないのにでも別に嫌いではなかった。
それが私の生活であって習慣になっていた。

Vtuber をみるときの私はそれと同じで、生活なのだと思う。
バンドを応援していると「遊びじゃねえぞ」という感覚になって、
クソみてえなライヴをするなと思うし全身全霊をかけてCDを作ってくれないと嫌だと思う。
「よくないライヴ」の次のライヴがある日は、驚くほどナイーブになって会場まで行くのに足が重くなったり行けなくなったりした。
明日死んでも良いと思えるようなライヴでないと意味がないように感じてしまう。
Vtuber を観ているときはそんな風には思わず、なんとなく、おもしろくなくてもなんかそこにあれば良くて
ときどきおもしろいこともあったり、自分の何かを肯定してくれるような出来事がたまにあることもある。なければないで、それで良い。
天井を見つめている時間とそう変わらない。


デフォルトでYoutubeのチャット欄を閉じてくれる拡張機能を入れたら毎回の手間が省けてかなりスムーズになった。毎回自分で「非表示」をクリックするのがめんどくさかったのだ。
というかそんな小さなことで毎回不便を感じていたことがおかしくて、人間はなんて不便な生き物なんだと思う。
そしてそんな小さなことを解決して共有してくれる人間がいる、ふん、人間っておもしろい生物だ。

今も言うのか分からないが、アイドルのおたくがライヴやイベントのことを「現場」と呼ぶのがすき。それに対して音源だけ聴く人のことを「在宅」と言うのも面白い表現だと思う。「現場」あってこその「在宅」だ。
V系のファンはCDのことを「音源」というのもおもしろいなと思う。ライヴが主体だからこそ、それが「音源」という表現になるのだと思う。中には、ライヴには毎回行くのに「音源」は一切聴いてないような人も居たりするのも頷ける。
Vtuberの「現場」ってじゃあどこなんだっていうと、生配信における「チャット欄」がそれになるのかしら?

普段チャット欄を基本閉じていて、「現場」の温度感が実はほとんど分からない。そのことが最近は良いことなのかそうじゃないのかよく分からなくなってきた。
「大事な何かを見落としているんじゃないか」という、さとみが言っていたことが「そこ」にあるような気がして、なんだか「その辺」を無駄にうろうろしてしまうときの感覚と同じになる。
けれども、そういう気持ちとともにあるのは、「大事なこと」にはしたくないなということ。
ナイーブになって足が止まってしまうようなものではなくて、「ただそこにあって欲しい」と思うようなもの。
私はこのVtuberを観るという趣味が、「遊びじゃ、ねえんだ」ではなくて、週末の夕方を走る車に流れる空気のようなものであってほしいと思う。
どっちが良いとかじゃなくって、それぞれそれが適切、みたいな。


クソみてえなライヴをするなだとか、
我々「ファン」が自分の理想をそこに押しつけては落胆したり、自分勝手な考え方によって少なからず活動に影響するということに勝手に罪悪感を感じたりすること、別にそれは決して悪いことではないというか、それを委ねることが「できる」ことの醍醐味というか。
すきじゃないのならそれを「見放す」だけで良いはずなのに、そこに対して立ち止まって、何度も振り返ることができるその「なにか」が残っていくのは、私にとっては生のライヴやバンドでしか得られない。
その自分勝手さに嫌気は差すけれど、でもそれだけ没頭できるということだから、そういう感覚が自分にも、そういう人間みたいな感情が自分にもあるのかと思うとすごく、うれしくなる。

「遊びじゃ、ねえんだ」の感覚は、自分のすべてを委ねることができるところがすきだけど、だからこそ全部自分に返ってくる感じが苦しいときもある。「なにか」が過剰にありすぎる。
「生活」みたいな趣味は、ふと振り返ったときの空白がとても不安になる。でも、「ない」ことがそこにある心地よさがある。
無責任に「応援」したり、しなかったりすること
でもどっちだっていつも「嫌いじゃない」。


自分で自分を救うための手段であるべき

ここがお前の居場所だっていう風に視聴者に思わせたくはないというか、お互い良いように使っていきたいね

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