夕方ジェネレーション

子供のころ
週末になると車で1時間ほどかけておばあちゃんちに連れていかれた。
車に乗るのがすきで、照明を3段目にしたみたいな薄暗い中に音楽やラジオを流しながら耳半分に景色をみたりうとうとしていくのがすきで、ラジオっていうのは全然おもしろくないのにでも別に嫌いではなかった。
それが私の生活であって習慣になっていた。

Vtuber をみるときの私はそれと同じで、生活なのだと思う。
バンドを応援していると「遊びじゃねえぞ」という感覚になって、
クソみてえなライヴをするなと思うし全身全霊をかけてCDを作ってくれないと嫌だと思う。
「よくないライヴ」の次のライヴがある日は、驚くほどナイーブになって会場まで行くのに足が重くなったり行けなくなったりした。
明日死んでも良いと思えるようなライヴでないと意味がないように感じてしまう。
Vtuber を観ているときはそんな風には思わず、なんとなく、おもしろくなくてもなんかそこにあれば良くて
ときどきおもしろいこともあったり、自分の何かを肯定してくれるような出来事がたまにあることもある。なければないで、それで良い。
天井を見つめている時間とそう変わらない。


デフォルトでYoutubeのチャット欄を閉じてくれる拡張機能を入れたら毎回の手間が省けてかなりスムーズになった。毎回自分で「非表示」をクリックするのがめんどくさかったのだ。
というかそんな小さなことで毎回不便を感じていたことがおかしくて、人間はなんて不便な生き物なんだと思う。
そしてそんな小さなことを解決して共有してくれる人間がいる、ふん、人間っておもしろい生物だ。

今も言うのか分からないが、アイドルのおたくがライヴやイベントのことを「現場」と呼ぶのがすき。それに対して音源だけ聴く人のことを「在宅」と言うのも面白い表現だと思う。「現場」あってこその「在宅」だ。
V系のファンはCDのことを「音源」というのもおもしろいなと思う。ライヴが主体だからこそ、それが「音源」という表現になるのだと思う。中には、ライヴには毎回行くのに「音源」は一切聴いてないような人も居たりするのも頷ける。
Vtuberの「現場」ってじゃあどこなんだっていうと、生配信における「チャット欄」がそれになるのかしら?

普段チャット欄を基本閉じていて、「現場」の温度感が実はほとんど分からない。そのことが最近は良いことなのかそうじゃないのかよく分からなくなってきた。
「大事な何かを見落としているんじゃないか」という、さとみが言っていたことが「そこ」にあるような気がして、なんだか「その辺」を無駄にうろうろしてしまうときの感覚と同じになる。
けれども、そういう気持ちとともにあるのは、「大事なこと」にはしたくないなということ。
ナイーブになって足が止まってしまうようなものではなくて、「ただそこにあって欲しい」と思うようなもの。
私はこのVtuberを観るという趣味が、「遊びじゃ、ねえんだ」ではなくて、週末の夕方を走る車に流れる空気のようなものであってほしいと思う。
どっちが良いとかじゃなくって、それぞれそれが適切、みたいな。


クソみてえなライヴをするなだとか、
我々「ファン」が自分の理想をそこに押しつけては落胆したり、自分勝手な考え方によって少なからず活動に影響するということに勝手に罪悪感を感じたりすること、別にそれは決して悪いことではないというか、それを委ねることが「できる」ことの醍醐味というか。
すきじゃないのならそれを「見放す」だけで良いはずなのに、そこに対して立ち止まって、何度も振り返ることができるその「なにか」が残っていくのは、私にとっては生のライヴやバンドでしか得られない。
その自分勝手さに嫌気は差すけれど、でもそれだけ没頭できるということだから、そういう感覚が自分にも、そういう人間みたいな感情が自分にもあるのかと思うとすごく、うれしくなる。

「遊びじゃ、ねえんだ」の感覚は、自分のすべてを委ねることができるところがすきだけど、だからこそ全部自分に返ってくる感じが苦しいときもある。「なにか」が過剰にありすぎる。
「生活」みたいな趣味は、ふと振り返ったときの空白がとても不安になる。でも、「ない」ことがそこにある心地よさがある。
無責任に「応援」したり、しなかったりすること
でもどっちだっていつも「嫌いじゃない」。


自分で自分を救うための手段であるべき

ここがお前の居場所だっていう風に視聴者に思わせたくはないというか、お互い良いように使っていきたいね

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