悪夢のような奇跡を

私は、記憶力が驚くほど無いので、毎日のことを少しでも記録しておこうと思ってブログを書いています。
生きるというのは、記録していくことかと思います。命を削って足あとにしていく、ということです。
生きる気が無いときの私は、記録や記憶を端から消して、それらをどんどん忘れていっていたように思います。
自分という存在だけを常に呪っていました。
しかし、この先記録していく必要があると感じたので、ブログをはじめたのだったと思います。

なので、こちらのブログは主に私があとで読むだけのただのメモのようなものですが、たまに読んで下さる友人や、インターネットで知り合った良く知らないひとたちや、通りすがりの暇なバンギャル諸君は、どうもありがとうございます。8割えんそくのことしか書いて無いのに、めげずに読んでくださっているご友人は特にどうもありがとうございます。
なぜそんなこと唐突に書いたかというと、もうすぐこちらのブログを書き始めて1年が経つからです。
まだちょっと先だけど、でもやっぱり私にとっては、1年になります。

以下は今日の日記です。

今日は帰ってきてお風呂に入って、それから少し眠った。
お昼はめずらしくラーメンを食べた。母にずんだミルクオレをひとつあげたら、(パッケージがハローキティなので)開けるのがもったいなくて飲めないなあ~と言っていた。

そのあとおばあちゃんの病院へ行った。
今日はもう、ほとんど何かをしゃべることが出来ないという感じで、みず、とか短い単語ばかりで、たまにちょっと長いことを言おうとしていた。
私の名前は短くて発音しやすい名前で良かったなと思った。
ようやく聴き取れた内容を忘れずに書いておく。
痛い、あしがいたい、頭のこぶが痛い、全部痛い、みんないたいのに、もういい、はやくいきたい
みず、スイカ、と言うので、スイカは無いと言うと、それでも食べたい、と言っていた。
こおり、と言うので困っていたら、看護師さんがかき氷を作って持ってきてくださった。なので、それを少しづつ口にいれてあげた。
母が車に荷物を取りに一瞬席を立って、私ひとりのときに急にすごくたくさんお話しはじめた。
帰らないでずっとそばにいてと手を強く握りながら言った、今日死ぬから帰らないでと言われた。
ひとりはさみしいからずっと居てと何度も言っていた。それを、母にも伝えて、と言ってた。
たくさんめいわくかけてごめんねと10回くらい言ってた。
あと、何かもうほんとに、なにが伝えたかったのかわからないけれど
痛いのは私、あなたじゃない。と言っていた。
あとは、
みんな間違ってる、さかさま、とずっと言っていた。
間違ってる、さかさま、って朦朧としながらずっと言ってた。
それが、何を指すことなのかが分からなかった。

母が言っていたが、何日か前は、私の名前を呼んで、「間に合わない」と言って泣いていたそうだ。
それでも母は、それを私に伝えずに、仙台気を付けて行って来てねと言ったのだった。
会いたいひとに会えるときに会えるだけ会いに行く、とはそういうことだ。

今は病院から帰ってきて、買い物に行く予定も結局やめて、こうしてブログを書いております。
この記録を書いている間に、先ほど連絡があり、亡くなったということでした。
私はちゃんと間にあったのだ。
おばあちゃんは意地でも私に会いたかったのかもしれない。
医者に、もうあしたにも死ぬかもしれないと言われてから1年も経って死にましたから、十分でしょう。

今日死ぬから、って1回だけ言ったんですよね、自分で。
私にだけそれを伝えたのは、毎日来てくれていた母に申し訳無かったからだろうか。
死という単語はその1回しか使って無い。あとは、「もういい」「こんなに痛いのに」という表現をしていた。
死ぬとわかっていて、もう良い、と言うけれど、「死」という単語はやはり使いたくないのだなと感じた。


春は死の季節だ。
ひとはだいたい春に死ぬものなのだ、そういう風に世界のルールが決まっている。
少なくとも私の世界のルールではそうだった。
ひとは知らない間にどんどん死ぬのだ。どういうわけだか、春を選び取って、死にたがるのだ。
だから私は春が来るたびにいやな夢ばかり見ていた。そういう春ばかり重なっていった。
それを1年かけてぶっ壊してくれたのがえんそくだった。あとおばあちゃんだ。
だからもう春の呪いはとけた。絶対に、忘れはしないけれどもう良いだろ、とけたってことで。
全部「さかさま」にしてやったぜ。ありがとう、良い薬です。

残った悪夢をチョコにして全部食べちゃうのが獏のお仕事ですから。
今日は、そういうことを思って、そういうことが起きました。
私は、これからも生きているかぎりは記録し続けようと思いますので、これからもどうぞよろしくお願いします。