何もかもおかしくて笑うしかない

今日はコミティア行けませんでした
朝はどうしようもなくてがんばれなくてでもがんばって夕方頃がんばって家を出てがんばってジュンク堂までいって3冊以上買うぞという気持ちで行ってどうにか本とマンガを購入して帰った。

鮪オーケストラの名前が変わったことが地味にショックで
良い名前だったのにな

空虚なので
とりあえず昔読んで楽しかった本を読んでみたりして安心してみたりしてる
丁寧な口調でブログを書けば私にも丁寧な生活がおくれるかもしれないとでも思いながら書く

空虚は空虚のままだ
でも私はそれでいいんだきっと

死体と遊ぶな子供達

今日は新宿で映画を観た
映画館は苦手
観終わったあとに劇場に漂う人々の「感情」の波を感じると私は逃げ出したくなるので、あの感じがとても苦手だ。
人々が各々に何かを語ろうとする空気を感じるととても疲れる。
また、大きな画面で観るということは、それだけで入ってくる情報の質も変わってくる。
それは良くもあり悪くもある。
かつてVHSで映画を観続けていた私には、それはとても疲れることだ。
劇場を出たら丁度ゴジラが鳴いていた。
新宿では、1日4回ゴジラが鳴きます。

帰ってから本を読んだ
本を読みながら気付いたら眠っていた
気付いたら眠っていたという状態がとてもすきだ

けれどもやっぱり穏やかではなくて
常に死にたいがまとわりついていて
そういった感情をツイッターで吐露することは「よくない」らしくて
どうにかしなければならない
死ねば良いのかもしれない。

今日みたえいがの感想を書きます。

カメラを止めるな

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結論からいうとまったくおもしろくなかった
ネタバレしない方が良いらしいのでまだのひとは以下読まなくて良いです。
とか書くのも、うすら寒くてちょっとあれなんですけど、
ネタバレ(どこまでがネタバレを含むのかもはやわからない)しててもしなくても同じ感想だったと思いますけど。

普通におもしろくなかったのはなんでかというと多分笑いのセンスがまず合わなかった。
後半で、劇場のみんなたちが笑ってる部分にまったくハマらなかった。
解決編始まる前に大体のネタが分かってしまう感じが私には楽しめなくて
あと普通にこういうタイプのドラマを寒く感じてしまう人間なので特にラストのあたりとかが駄目だったんですけど、
で、私はそういうたぐいの感想を終わったあと言うんだろうな…っていうのを開始5分くらいで悟ってしまったのでもう駄目だな…ってなっちゃった
まずこれもう一回みるんだろうな…だるいなと思ってしまう時点で駄目で、後半になったらここはおそらく「おもしろポイント」になるであろうなという部分がことごとく「伏線」としてはっきり認識できてしまう感じで、そういうシーンがあると全部「ああはいはい…」みたいな感情になってしまった。
そういう分かりやすさが、まず楽しめなくて
1ヶ月後のシーンではまた硬水が駄目とか腰痛とかをひとつづつ置いていくのも面白くなくてああはいはいあとで飲むのね、ああはいはいあのシーンでやたらカメラズームしてたのはそういうことねとか、「もう一度」が始まる前に「小さく」回収されちゃったのも消化不良というか
それ含めて楽しむって楽しみ方もあるんだと思うんだけどそれすらできないまままた解決編が始まって同じものをみせられてうーんそうですねって感じになった。
つまり大きくいって3回「つまらなさ」を体験しなくてはいけなくて、
そういうのが私には単純に向いてなかったです。
笑いのセンス合わなかったのが一番楽しめなかったかも、ネタバレが云々とかよりも。
何が正解なの?って聞いたら、みんなたちはそういうわかりやすいカタルシスを楽しむんじゃない?って言われたけど、最後までカタルシさなかったです、ごめんなさい。

映画というもの自体を観るのに向いてないなって久々に思った。


結果的に、みんなが楽しいと思うものを楽しめなかった自分、だけが残ってつらくなった
こういう感想しか持てないつまらない自分がつらくなったしそのことにつらくなってる自分にまたつらくなった
暗いですね

なんかね、私はそういうとこが駄目なんですよね

冷たいから生きようとするネジまかれる

今日は紙ものをひたすらやっていた
「なんかかっこよく」するやつをずっとしていた。
おなかはいっぱいだった。
じんさんがツイッターをしていた。
明日は早く起きたい

今日は良い感じの風が吹いていた
朝から良い感じだった(空気だけが)

そんなわけで今日はずっとこれ
www.youtube.com

恐怖の構造

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

恐怖の構造 (幻冬舎新書)

読んでいて気付いたが私は怖い話とか怖い映画とかまったく怖いって思わないんですけど
だから私にホラーは作れない。
平山が「恐怖に投げ飛ばされたいタイプ」と書いていてそれだなあと思う。
それなんだよなあ。
生きることにわだかまりがあって人生どん詰まりな人間
とにかく恐怖に殴られたい。

平山が市松人形にまつわる不幸が次々と起こることに対して「ますますいい感じだ」と興奮するところが良い
私はそういう人がすき
ただしなんていうか私は平山のことだいすきなんだけど最近の彼の本は、特にダイナーあたりからずっと全然おもしろくなくて読んでない
それでも平山という人間はだいすき

高いところから落ちたらどうなるんだろうって不安になっちゃう平山に対して春日先生が「そんなの肩から大腿骨が突き出て死ぬだけだよ(笑)」って言ってるのが良かった。
春日先生もたいがいのきちがいなのでだいすき

夢に見てた理想の世界それぞれの正しさ

今週考えていたこと

1年前同じ事を言っていたので載せておく

「良いライヴ」って誰かに量れるものではなくて
たとえば、私が全然楽しめなくて「良いライヴ」じゃなかったなと思ったとしても、
けれどもその日のライヴを「一生の良い思い出」だと思う人もいて、
私はそれを否定もしないし肯定もしない。
それは、その人にとっての「正しさ」だと思うし、その人にとっての「良いライヴ」だったのだと思う。
私はそれを「正しい」と思う。
あるいは、正しいとか正しくないとか、それ以前のものだ。
それ以前の、もっと美しい感情だ。
むしろ私は、そういった人の邪魔を極力したくない。
けれども、その他人の「正しさ」を「肯定」してしまったら、圧倒的に自分は正しくなくて、私はそこに居る必要がなかったんだな、という気持ちが大きくなって死にたくなるので、それもなるべくしないようにしている。
しないようにしているのにしてしまうのでいつも死にたくなってるけど。
先週末はだから、自分の正しさが正しくないことについて考えてしまったのだった。

私にとっての「良いライヴ」は、客とステージとの熱量がどれだけ同じに高めあえるかという点で、それは、自分一人ががんばったところでできるものでは無いと思っている。それが私の「理想」だけれど、
私は別にそれを他人に強要しようとかそうしないからだめとか違う意見の人がいるから良いライヴじゃなかったとか、そういうことは思ってない。
そういうバンドじゃないから、そういう客じゃないから「駄目なライヴ」とは思わない、
そこにすききらいはあるが。
ただ、私は、自分で自分のことだけは肯定してあげなければならないと思っているだけだ。
私は私の「正しさ」を貫かなければならないだけだ。

だから、モノサシとして残るものは、自分がその日頑張れたか頑張れなかったかということだけだ。
「すききらい」はモノサシにならないと思う。それは別のものだ。
なので、意見が合わないから嫌いとかもない。好きだから意見が合うということも無ければ意見が合うから好きということもない多分。
観てないライヴやバンドにケチをつけるのはもちろん論外だ。

よって私は、わたしの「正しさ」を「自分」でがんばることしかできない。
それしかできない。
そうすることが私の「正しさ」だ。
ただ、それによって「楽しさ」は計れないのだ。
自分ががんばってもどうにもならないことはたくさんある。
そしてそれは、どこまでいっても「自分」のせいでしかない。
私がライヴが楽しくなかったとしても、それはバンドのせいでも客のせいでもない。
自分のせいだ。

そういう意味で、「私は誰のことも否定しないし肯定もしない」。

今はただ、この気持ちを忘れないようにしたい。
私が「今」ライヴへ行く理由は、死にたくないからだし
私が「正しさ」を貫こうとする意味も、やっぱり死にたくないからだ。
ずっと5月に生きているのは健康じゃないから、と思うが
結果的にずっと5月から抜け出せてないんだろうなと思う。
かっこ悪い。

居心地は悪いですよ。
ただ、すきなものをすきでいたい気持ちには変わりない。