君のためによかれと思い詩をつくった

毎日忙しい、なぜだろう。
気づくと3月になっていて、もうすぐ4月になっちゃうね。
気が抜けるときっと私の春はだめだから
気を張って過ごしたいと思う。


私は、阿佐ヶ谷というとあびゅうきょSABEかを思い起こすんだけども
SABE先生が亡くなったのって2009年のことなんだなあ…ついこないだのことのような気がしてしまった。
時が立つのがずいぶん早いね
いろいろなことをほったらかしにしたまま時間だけがすぎていくよ

大阪のライヴで
“小さめの借家に二人”は、のとこを「ボクラは」だか「ボク達は」って言っていたの、よく覚えてて、
隣にいるひともきっとよく覚えて帰るんだろうなと思っていたらちゃんとよく覚えて帰っていたので、そういうのをいつもおもしろいなと思います。



大変良い記事だったのでメモ。
bijutsutecho.com
以下引用

僕は小さい頃から芸術に関心があったわけではないんです。福岡県の理系大学に通っていた頃、「美術といえば印象派」といったイメージしかなかった。当時、たまたま訪れた福岡県立美術館で中国のアバンギャルド絵画を見て、なんとなく心にひっかかりのようなものができました。美術館に行くのもほとんど初めてで、作品のこともよくわからなかったのですが、とても印象的な体験で、「美術」のイメージが変わりました。

それでも、「芸術とはなんぞや」といったことにはまるで興味がなく、自分に関係あることとは思いもしなかったのですが、クラブでDJをして遊んでいたときに、流行りの曲をかければみんなノってくれるのに、自分がかけたい曲をかけるとフロアから人がいなくなることや、そのバランスをとれる「上手いDJ」との違いなんかが気になっていて。いま思うと、そのあたりで表現する場づくりやその双方向性について、体感的に学んだり、考えたりし始めたように思います。

竹内公太は、近年みた作家の中でも、一番ちゃんとしてるっていうか、自分のやりたいことをちゃんと表現できているというか、やりたいことがちゃんとあるひとなんだな、という風に思っていた。
芸術に対する熱の冷たさみたいなものがすきで、
それって、そうか「美術といえば印象派」とか思ってたひとだからこそなのか、と思って感心しました。
藝大の先端って比較的そういう「謎」なひとがあつまる場所なのかな知る限り
今回の展示には結局行けなかった。

しかしギャラリーどころか美術館へまったく足を運んでいないのは良くないな
「良くない」というのは、美術館に限らず、ある程度実感として今ある物事を肌で体感するというのが大事という意味である。
感覚というのはゆっくりとゆっくりと下降していくもので、気づいたら実は穴の中に落ちていたりするものなのだと思うから、ゆるくても良いから継続させていくべきである。
そういった感覚を元に戻すのはむつかしいからね
積み重ねは大事だ
触れられるものには触れられる内に触れておくべきであると思う。何事も。
そんなわけで、今はライヴに忙しい。


そういえば「リルカの葬列」ってジャケがますむらひろしなんですね
筋少はジャケコレクション的な本だしたらええねん
もうある?無い??

日常パートも更新したぜおまえたち
じゃあな、また明日ね。