お気に入りの静寂が死に続けている

今週はリモートワークで私は1週間家から出ていない。
と、言うと「少しくらい散歩にでたら」「少しでも出たら気分が良くなるから」などと言われる。
私はそもそも気分は良い。

音楽は意外と聴いていない。音楽だとなんだか集中できなくて人が話してる方が落ち着くことを発見したのでCDのドラマパートとか適当なVtuberの配信を音だけで聴くとかする。
事実よりもいくらかマシなSF小説などを読みながら風呂に入る。
眠る前にGoogleカレンダーに日記を付ける。
まぶたの裏を見る前に他人の日記を読む。

枕もとに「つげ義春日記」を置いていたせいで、「つげ義春記念公園」という奇妙な場所へ出かける夢を見た。
我々はバスに乗っている。やたらと広いバスだ。遠足なのだろう
目的地に着いたらしい
窓の外には小さな模型の家が積まれている。
それの一つ一つがカラフルな、ソットサスのような、荒川修作のようなものだ。
着いたところは「つげ義春記念公園」だった。
開放的な空間に、背の低い漫画の棚がずらりと並べられている
その周りに様々な人形が置いてある。
暗くも明るくもないその広場で我々は集って写真を撮る。



小学生のときはどうしてあんなに時間があったのだろう。
退屈をどうにか埋めたくて、何もかもをしていた気がする。
できることを「何もかも」していた。鏡を使って先生の後頭部に光を集めたりとか。
新聞を作ったりだとか。机の上で架空の地図を作って、その通りに歩きに行ったりだとか。
雨粒を数えたりだとか。
今はそんなふうに「退屈」をつぶさなくても良いことになっているらしい。
退屈なことには何も変わらないのにね。
「退屈」も「何かおもしろいことないかな」も、一生終わらないんだろうか。


アニメ見終わっちゃったな
ふくだたもつは良かった
逆に言うとふくだ君以外すきなキャラいなかったな
でもおもしろかった。
私はあまりアニメや本を、キャラクターで観ていないので
「すきなキャラは?」とか「推しは?」みたいな会話がとても苦手だ。
決めなくてはいけないのだろうかといつも思う。
こいつすきーこいつもすきーって、いっぱい居る
もっというと別にキャラがすきなわけではなくて、そいつに付随する物語を見ているにすぎない。
「推しは?」「推しディビジョンは?」などときかれても、いやそれは決めないといけないのか?といつも思う。

私はやっぱりアニメとか映画とか観るの苦手なのかもしれない
いつもいつも最後まで飽きずにみることができない。
「何か良いことが起こる」とか「解決」とかが苦手なのかもしれない。
混沌の間の時間が、一番良い。


1週間家にいるのに、ひとつもマンガを読めなかった。
本もちっとも進まなかった。
今日が金曜日だとさっき気付いた。
我々は、自分のすきなものを自分のやり方でどうにか守っていかなければならない。