この宇宙中何処にも最初からなかったのだろう

金曜日は新宿のアカシアという所で白いロールキャベツを食べた。
美味しくってよかった。
店内のBGMが適当なラジオみたいなやつで良かった。
おなかたくさんになった。



今日は
壁や瞼の裏を見て過ごす予定だったが無理だったので新宿へ行った。

えんそくのことを知らない人に説明しようとして
居場所だという言葉しか出てこなくて言いながら泣きそうになってしまった。
1番楽しみにしていた青森へは行かずに私は今この新宿で、私の居場所はライヴハウスにしかないのだと説明するのが悲しかった。それを他人に言うべきではないと思いながらも言ってしまう自分にも悲しかった。
でもすきだから行かなかった。
行けなくなった。
分からないだろうけど、
わからなくていい。

自分を解放できる場所が欲しいのか、と言われたがそうじゃあないんだよ。
テクノミュージックじゃねえんだ
こちとらヴィジュアル系なんだぜ。
そんなような話をしたかったけれど多分伝わらなかったし伝えるには100時間くらいいりそうだったのでやめた。
身を任せるようなミュージックじゃなくてもっと
身が削れるような、私にとってはそんなもの
「私の人生みたいだ」とでも言えば良かった。
いやいや、人生じゃあないんだよ人生じゃ。


常になにかに納得したいだけだ。
きらいなものでも、納得ができるかどうかだ。自分の中で辻褄が合えば、受け入れられる。
だからきらいなものでもすきなものでも、なぜそう思ったのか、なんでそうなのか、なにがおもしろいのかとか、すぐ人に聞いてしまう。
きらいなものでも、自分がなんでそれが嫌いなのか、って人に説明できるまで考えるし、それが説明できることならば他人にわざわざ言ったって良いんだと思う。
それよりも、わからないしきらいだから見ないってする方がこわくて
本当にそういうものに直面しなくてはいけないときに、お前たちじゃあ一体どうするのかと思う。きらいなものわざわざ言及しなくてもいいよねー、じゃあないんだよ。じゃあないんだよを多用しすぎました。
Twitterは特にそんな感じで、要するに自分のすきなものをフォローしてすきなものだけしか見ない、極端に言ってしまえばそういうツールだ。
生活にノイズはある程度必要だと私は思っていて、そうでないとバランスが取れない。
バランスだ。


すきなひととだけ会ってるのはダメだって私も思うけど
とはいえ、わざわざ嫌いな人に合わせることはまあ無いですよとは思う。
すきでも理解できない人はたくさんいて
理解できない人とは、なるべく話がしたいと思う。
きらいだし理解できねえ人は、じゃあ終わりだ、と思う。

にゅろたんがこないだツイッターで、なるべくすべて肯定したいみたいなこと言ってて
それすごくわかるって思うけど
私は本当は、少しそれとはちがくて、誰のことも否定も肯定もしない。できてるかはともかく、とにかくそうありたいと思っている。
にゅろたんと話をしていて、私は今この人に肯定されているなという話し方をされているなと感じ取ってしまうときに、
少しだけさみしい気持ちになってしまう。
これはなんか語弊のありそうな言い方ですね。それ以上でもそれ以下でもない。


花音ちゃんに、今日は魂が抜けてる感じだと言われた
そうかなあそうだな
ヘドバンがしたい



明日からまた会社だが
4月に入った人間が今月いっぱいで辞めるらしい。
やめたいと思った時に辞められるような会社で良かったですね。
まったく理解できないからすごくモヤモヤしている毎日