夕べの失敗の余韻が舌に残る

ゴールデンウィーク
何もしてない


・12日(日)
コミティアへ行った
お手伝いなどをした
新たに知り合いが増えた

会話の中で
その場にいない外国人のなんとかくんとその彼女の話をしていた。
なんとかくんは、彼女ののろけ話ばかりしてくるという
彼女にすきな映画をきいたらホドロフスキーだというので、外人のなんとかくんはそれをファンタスティックだかアメージングだかと思ったらしい。
そしてそれについてみなさんが、「それはいい女だ」などという感想を述べていて、私はそれを愉快に感じた。
ホドロフスキーがすきだという理由だけでそれがいい女だとされる共通認識があることが面白かった。
ホドロフスキーがすきな女などこの世には腐るほどいて、
また、彼女のみるそれと、自分のみるそれとが同じ感性であるとは一切限らない。にも関わらず、
「すきな映画がホドロフスキー」だったときに、「良い女だ」と思う文脈がたしかにそこにあったのだった。
私には分からない感性で、それが愉快であり、また不愉快であった。
もしかしたら、枕詞のようなもので、すきな映画=ホドロフスキー の場合「良い女だ」と返すのが、もしかしたら、もしかするとお約束なのかもしれない。
私には分からない文化なのかもしれない。

趣味で人を判断する人間が私は少し苦手で
ソレがすきだったとして、じゃあなんだとよく思う。
判断基準にはなるのかもしれないが
だったらなんなのだろうという気にしかならない。
気持ちがわるいなと思ってしまう。

清水さんが「コスパ」という言葉を使っていて、それを意外に感じた。
私は「コスパ」という言葉は絶対に使わないので、よく分からないなと思ったが、
その使い古された言葉がそのときは妙に新鮮にきこえて、なんだか不思議に思った。
コスパ」という言葉がなんだか時を越えてやってきた新しい響きの言葉のようにきこえた。
私は清水さんについて何も知らないからそのように感じたのかもしれない。


・18日(土)
シド・ミード展をみに、3331 Arts Chiyodaという所へ行った。
廃校を利用した建物のようだ。前情報なく行ったのでなんかよくわからないがそんな感じだった。
可も無く不可もなく
特になにもなかった。ミードは絵が上手だった。
なんというかファン感謝祭という感じで、絵画としてのおもしろさはないがデザイン画として大変優れていて
優れているがそれだけである。嫌いではない。ターンエーガンダムは虚無感強そうなのでちゃんと観たくなった。
年期の入ったおたくたちがたくさんいて場違いを感じた。
ようするに私はターゲット層ではなかったので響かなかったというだけで、展示自体は良いものなんだと思う。
誘われなければいかなかったであろう。
前日に、先週コミティアで知り合った1人に誘われ、断る理由もないので行った。
さらにその友人2人という知らないひとたちだらけの計4人でいったが、知らないひとたちは知らない人達のまま解散した。
コミュニケーション不足を感じた
140字という感じがした。
コミュニケーションや「会話」とは何か、ということについて考えた。


・19日(日)
天井やまぶたの裏をみて過ごした
ゴールデンウィークで見切れなかった映像の続きを観た。
最後のほうで爆発して、それが良かった。
やっぱ爆発だよな!ってなる。
何も考えなかったので良かった。
何もなかった。

みた映像の中で、「ずっと探しているけど、結局なかったんだな」と言っていて
そうだなと思った。
結局居場所などどこにもないのだ。

深く眠りたかったので、自分の外側を意識しながら眠った。
世界はおふとんになり、私もまたおふとんになった。