私は一足先に大好きな春で待とう

朝起きるのが日に日にミクロ単位で辛くなることに気づいてしまって
それは多分やばいやつだから、知ってるこれやばいやつだって、何度も何度もなったことがあるやつだからって。だからどうにかしよう今度も大丈夫慣れてるどうにかしようってたくさん考えて、考えてる時いつも胸の中が真っ黒になって真っ黒でたくさんになって車や電車じゃきっと死ねなくて高層ビルから落ちるにはどうしたら良いかいつも考えててそれからビルを見上げるといつも次第にそれらが放つ光とかそんなものにしか興味がなくなって空っぽになるからそうやって階段を降りたり登ったりして家に着く頃には灰色に薄まって何も無かったみたいになる
なんだっけ?
まあいいか
そしてまた朝になってミクロ単位で時計がズレてく朝の起き方を1つずつ試してはあれもダメこれもだめ、あ今日は30個目の起き方で起きれた、みたいな朝をむかえる
起きようとするのがえらいなぜならそれしか私には無いからそれをしているにすぎない。それというのは生きるということ、明日も明後日も朝起きて生きてまた眠るという事だ。そういう選択肢しかない。
自分の顔がすきになれないから化粧がつらい、だから色々あれこれテーマやルールを決めておいてそれにチェックをつけていく、そういう感じにする。
なんか今たぶんストレスが多分3倍くらいある、そしてそれを解消するすべが圧倒的に少ない
ストレスがあるかどうか私は自分で分からない。なぜなら生きていてストレスがない状態を知らないからだ、ということに気づいたのはいつだ、大人になってからだ、大人ってなんだ。
ストレスがあるかどうかがわかるのは顔に吹き出物ができたり胃が食べ物を拒否する回数が増えたりするときに分かる。身体は正直なのだ。身体は正直というのなんだかエロマンガの台詞みたいだね。私がそういうことを言うと大概ビックリされるのでやめよう。言わないけど。
昔、私が「くそが」とか「ふざけんな」と言うととても喜ぶヒトがいて、なんでかと言うと私がそういった汚い言葉を使うと思えないからだと言っていた、だから私はたまにそいつのまえでわざとそんな言葉使いをほんの少ししてみせる時があった。
汚い言葉といえばこないだバイトに来ていた人が他人に対して「クソ地雷女」という表現をしていて私はそれをきいて本当に無理だなと思ってしまってそういう無理だなという瞬間があと100回くらいあったから、職場というのは仕事が出来ることよりも人としてやっていけるかの方が100倍くらい大事だっと思う私は。なんか、違うらしいけど。
こうやって毎日今度こそもうダメなんじゃないかと思う一日の終わりに毛布と一体化して永遠に夢の中に居たいと願いながらまた無理やり朝をむかえてはひとつずつ何かを破壊していく。破壊していかなければならない。破壊と衝動こそが生きている証だ。
首を吊ればきっと死ねることも知ってるし死ねなくて助かっちゃうこともよく知ってる。
生き延びるために必要なものなどない
100個目の「金属のカプセルみたいなもの」を集めたところでまた振り出しに戻るのだ。じゃあ詩を詠みなさい。日記も書きなさい。他人にたくさん迷惑をかけなさい。
こうやって垂れ流した思考を読む誰かがいることを、私はとても気の毒に思う。