夢に見てた理想の世界それぞれの正しさ

今週考えていたこと

1年前同じ事を言っていたので載せておく

「良いライヴ」って誰かに量れるものではなくて
たとえば、私が全然楽しめなくて「良いライヴ」じゃなかったなと思ったとしても、
けれどもその日のライヴを「一生の良い思い出」だと思う人もいて、
私はそれを否定もしないし肯定もしない。
それは、その人にとっての「正しさ」だと思うし、その人にとっての「良いライヴ」だったのだと思う。
私はそれを「正しい」と思う。
あるいは、正しいとか正しくないとか、それ以前のものだ。
それ以前の、もっと美しい感情だ。
むしろ私は、そういった人の邪魔を極力したくない。
けれども、その他人の「正しさ」を「肯定」してしまったら、圧倒的に自分は正しくなくて、私はそこに居る必要がなかったんだな、という気持ちが大きくなって死にたくなるので、それもなるべくしないようにしている。
しないようにしているのにしてしまうのでいつも死にたくなってるけど。
先週末はだから、自分の正しさが正しくないことについて考えてしまったのだった。

私にとっての「良いライヴ」は、客とステージとの熱量がどれだけ同じに高めあえるかという点で、それは、自分一人ががんばったところでできるものでは無いと思っている。それが私の「理想」だけれど、
私は別にそれを他人に強要しようとかそうしないからだめとか違う意見の人がいるから良いライヴじゃなかったとか、そういうことは思ってない。
そういうバンドじゃないから、そういう客じゃないから「駄目なライヴ」とは思わない、
そこにすききらいはあるが。
ただ、私は、自分で自分のことだけは肯定してあげなければならないと思っているだけだ。
私は私の「正しさ」を貫かなければならないだけだ。

だから、モノサシとして残るものは、自分がその日頑張れたか頑張れなかったかということだけだ。
「すききらい」はモノサシにならないと思う。それは別のものだ。
なので、意見が合わないから嫌いとかもない。好きだから意見が合うということも無ければ意見が合うから好きということもない多分。
観てないライヴやバンドにケチをつけるのはもちろん論外だ。

よって私は、わたしの「正しさ」を「自分」でがんばることしかできない。
それしかできない。
そうすることが私の「正しさ」だ。
ただ、それによって「楽しさ」は計れないのだ。
自分ががんばってもどうにもならないことはたくさんある。
そしてそれは、どこまでいっても「自分」のせいでしかない。
私がライヴが楽しくなかったとしても、それはバンドのせいでも客のせいでもない。
自分のせいだ。

そういう意味で、「私は誰のことも否定しないし肯定もしない」。

今はただ、この気持ちを忘れないようにしたい。
私が「今」ライヴへ行く理由は、死にたくないからだし
私が「正しさ」を貫こうとする意味も、やっぱり死にたくないからだ。
ずっと5月に生きているのは健康じゃないから、と思うが
結果的にずっと5月から抜け出せてないんだろうなと思う。
かっこ悪い。

居心地は悪いですよ。
ただ、すきなものをすきでいたい気持ちには変わりない。