感情の赴いたままにどうなってしまってもいいさ

土曜は仙台へ行った。
朝めちゃくちゃ久しぶりにチケ発をした。
チケ発とか……いつぶりなんだろう。行くか分からないが取った。そうしないと、という気持ちだった。
もう少しお話したいなーと思っていた子が向こうからお話してくれた。やはり仙台の子だった。次も行くと言っていたのでとてもうれしくなった。

萩の月をちゃんと買ったがずんだシェイクを飲む時間は無かった。
新幹線“こまち”に乗って帰った。
どうしても“こまち”で帰りたかったので、ライヴが終わったらドリンクも変えずにすぐさま出た。
前回の仙台も“こまち”で帰った。
できればもう“こまち”ばっかり乗りたい。
東京についてから、電車に乗っていたら隣の女がスマートフォンを弄りながら、新幹線内で人が刺される速報が入ったという話をしていた。
先ほどまで「新幹線」に乗っていたので、まったく違う場所ではあるが、その共通点を思って不思議な気持ちになった。
隣に座っている女はずっと後輩の男に強い口調で話をしており不愉快だったが、イヤホンをする気にもなれず、薄く眠りながら、降りるまでその声をずっと聞いていた。
雨が強く降っていて、どうやらタイフウが来るらしい。


日曜は行くつもりでなかったインストへ二か所行った。


人間なんて話をしても分からないことだらけなのに話もしないで分かったような気でいるのは良くないということを肝に銘じていたはずだがなかなかできていなかったのだなとヒシヒシと感じ、反省をしている。
他人に対してもかなりそう思うことが多い。なぜみんな知らない人のことを知らないままに想像してしまうのだろう。
今後もっと気をつかっていきたい部分であるなと思う。

また、自分の考えというのは果たしてどこまで正しくいられるのか、ということを考えている。
自分の信念というのを自分で信じてあげられなければそれは、たちどころに崩れてしまうものだ。
しかし、他人に自分の考えを押し付けたくも無い。自分の考えは果たしてこれで本当に正しいのか?と思うといつもとても不安になる。
そして、他人の考えを否定できるほど強くあることもできない。なんかまあそういう考えもあるもんなあ、とか思うし
自分を信じてあげられなくなると、私がやっていることは間違っているのだろうか?と思って空虚になってしまう。
うまい具合に自分のことをちゃんと信じてあげられるようにしなくてはいけないという課題が常にある。
生きていて、ずっとそういう気持ちになる。自分を信じてあげられるのは自分でしか無いのに。
私がやりたいことは、強い意志が無いとできないものだ。
私には、「強い意志」があるようで無い。よくありそうだと勘違いされるが、そんなものは簡単にすぐ折れてしまうのだ。
私は自分のことをすきになれないし、何事もせめて80パーセントまで行かないと満足が行かない。
だが私は、そういった生き方を自分で否定はしない。
それを否定されるようなことを見聞きすると、とてもしんどくなる。


眠らなければならない。