運が悪けりゃ死ぬだけさ

おとといあたりからずっと何かの選択肢を間違え続けている感覚が強い
実際間違え続けていて
昨日は、私がいまここに存在していても良いのだろうかという気持ちが何処にいても消えなくてとても困った。
新宿や、新幹線の中や、広島の橋の上や、ホテルのロビーや、商店街や、ライヴハウスの真ん中で。私はどこにも居なかった。
広く言って、世界に対する自分の居心地の悪さが酷くてとうとうライヴ中にすらしんどくなってしまった
何のために生きているのかよくわからなくなった。
実際何のためでも無いから安心しろと毎日言い聞かせている。
そういうのがまたどんどん増えるのだろうかと思うと大変憂鬱であるがそれは仕方の無いことだ
ただ元に戻ると言うだけだ。
“生まれた時から戦力外”なのは生まれた時から知っている。
自分と、世界との接点を、より多く作ることが必ずしも良いこととは限らない。悪いこととも限らないが。
だから、大丈夫だ。考えすぎても良いのだ。
それでも私は、毎日毎日、次のライヴが楽しみで仕方が無い。
今はそれだけで良いのだ。


自分のツイッターを観ると大変“ほの暗い”人物のように見えてよくないですね。
いやよくないのか?よくないかどうかはわからないが、、
ツイッターをきかれたときに少し気まずい思いをしてしまう。
アカウントを聞いてくれた人らも、きっと私がこんなような情緒の人間だと思ってないだろう。ごめんなさいね、と思う。
朗らかなツイートを心がけたら良いのかもしれないがツイッターなんて死にたい以外に書きたいことがない。


日中は、広島から福岡にバスで移動した。
道中読もうと思い選定してきた本もバスの中でひとつも開かなかった。
バスや新幹線で読むのに丁度良かろうと思い、出る寸前まで悩んで決めたはずなのに。
それよりもバスの外の景色を観るのが面白かった。
「窓」から自然物を眺めるというのが良い。
木々が、ある意味整然と生い茂っている様を観ると心が安心する。自分には絶対に作り出せないモノを観ると、世界が許せるような気さえしてくる。
うまく言えないのだが、自分と関係のないものを観るのが恐らく良いんだろうと思う。
しかし森に住みたいとは1ミクロも思わない。木や自然はすききらいで言えば嫌いな方だ。
私は「自然」が似合わない。
だからこそ、観ていて良いのだ、その奥の奥を想像するのが良い。
今日は、そんな想像をしていたら、シャマランのヴィレッジなどを思い出してしまい少し愉快な気持ちになれた。
あれは愉快な映画ですよね。

夜は何も食べたいものが無くて、ないが、何か胃に入れなくてはと思い「風街」へ行った。1度入った時雰囲気が気に入った喫茶店で、店名はさることながら、何故かロゴに「ムッシュ・ムニエル」があしらわれていることや、メニューにいちいち味の説明やおすすめなどの情報が書いてあって、改めてじっくり見たら珈琲の欄に、ムッシュ・ムニエルも愛飲しています等と書かれており大変愛おしく思った。また、店員の歯切れの悪さと声の聞き取りずらさ、頼んだナポリタン(喫茶店といえばナポリタンでしょう)の麺が一部固まっている所、ちょうど良い時に飲み物をさっと出してくれる所、客が私以外2人組の女しか居なかった所(こんな時間に喫茶店など普通の客は来ない)、などが気に入ったりした。
また、ハーブチャイを頼んだら大変美味であった。
だが、もう二度と来ないのだろう。
久しぶりになにか、何でもない時間を過ごしたな
何も無い時間が私はすきだから良かった。
冷たい空気を浴びながら帰る道すがら、横断歩道から聞こえるとうりゃんせに思いを馳せた。
さみしくなってしまった。
ちなみに「風街ろまん」ですきな曲は
あしたてんきになあれ、はいからはくち
このふたつが特にたまらんよな
帰ったら久しぶりに聴いてみるかなと思うが聴かないだろうな

福岡のホテルはいつものところにすれば良かったなと後悔した
かなり後悔している

あとは、リキッドファンデを変えたら割と良くてその事をちょくちょく考えたりなどした。
化粧はあまり得意でないのだが、最近は気を使うようにしている
自分の顔に何かを施すというのが良くない。自分の顔はあまりすきではない、というか、自分の中ですきなものって特に無い。
自分のことをもっとすきならば良かった。

今日はそんな風に過ごした。
毎日毎日胸が不安でいっぱいだ。
明日は良い一日にしたい。