戦争に反対する唯一の手段は
昼飯
・国産蒸し鶏の胡麻サラダ
・ミルクのようにやさしいダイズ
ブルボンのラシュクーレを永遠に食べてる
今日
今日は半分くらい、会社で一人だった。
おなかいっぱいで、すやっ…としてしまったが起こしてくれる人は居なかった
穏やかな一日であったと思う。
インストやライヴの予定を考えて、うーんとうなる。
たまたま見かけたのでメモ
togetter.com
私はこれをみて、いらじ先生が「正しい」と思ったが
そのあとの会田先生のツイート、ここもまとめに入れるべき
まあ僕の考え方は単純で、ある時期ある場でみんなの作風が似てくる傾向はご用心、ということ。例えば僕が美大生だった頃は、みんな「日本版抽象表現主義/ポストもの派」に固まってた。僕はそこから抜け出したくて、一人勝手に日本画を研究した。
— 会田誠 (@makotoaida) 2017年4月20日
よって、会田先生の言い分も正しいと言えばある意味正しい。
しかし私は、絵というのは自分が描きたくて描くというのが「正しく」あって欲しいから
何がむいてるとかそんなものは関係無いかなと、思いますけどね
この、「作風が似てくる傾向はご用心」というのも、何をもってしてご用心か、というのを考えると、いらじ先生にはまったく関係の無い事柄ではないか。何がご用心なものかと思う、すきで描いてるんだから「趣味じゃない」という言い方は正しいと感じました。
人間として方向が違いすぎる。
すれ違うことの無いような人たちがこうしてインターネットで出会ってしまうこと、
良いことであり悪いことでありという感じ。
まさに今日泣いたよ。可愛くなりたい気持ちと実際に可愛さが追いつくスピードに差があり過ぎて焦って泣いたよ。どうしたらもっと可愛くなれるのか毎日考えてるよ。
— 細川唯 (@yuihosokawa0622) 2017年4月20日
何が美しいか何が醜いかは誰に分かるものではない
「どうしたらもっと可愛くなれるのか」という、その精神的美しさを私は支持する。
美しさということについて考えていた。
この世界は狂っている。
美しい世界の中では、美しくないものでさえもまた、美しくあり続けるのだ。
恐ろしいけどそれもまた「正しい」のだ。
枝分かれする無限の世界で私は「正しい」選択をしたうえでここに立っているのだろう。
何が正しくて何が正しくないか、それは私が決めることでは無さそうだ。
『戦争に反対する唯一の手段は、各自の生活を美しくして、それに執着することである。』
とはよく言ったものです。