僕のカラダはもうボロボロで

今日はライヴ行こうと思ったけどおやすみした。
ここ数日は眠ったり起きたりしていた。
風邪というやつ。
めんたるがヘラっているわけでは無いのだけど
ここ数ヶ月で心のある一部分がどうしても緩やかに死んでいて、それに拍車がかかるようでやだった。
それで、ええとここ数日の話はというと、風邪で身体がだるかったので
本を読んだり音楽を聴くこともなかった。
ほとんど何も思い出せない、曜日もよくわからない。
今日は何曜日だった?然して問題じゃ無いか。
初めて会社行きたくないなあと本気で思った。
えんそくがなければさっさと死んでいたのになと思う。
えんそくなどすきになった自分にむかついてきた。
そういうときは、デスクにある星のカービィをみたり
もらったハローの缶を眺めたりなどして落ち着く。
リンゴ3つ分の体重に思いをはせる。

何年か前の私はたしか
「死にたくなるほど嫌なことなんてひとつもないぜ」と充が歌うから
そうなんだなあと思って適当に、
どうやって死ぬのが理想なのかなあと考えたりしながらも日々を過ごしていたかなあ。
死んでもいいよ、っていう限界ポイントを超えたものが、あれからまた3つくらいは貯まっていても、
でも、理由は無いけど問答無用に生きろよーってぶうさんが歌うから、
今もやっぱり仕方無く生きているのだと思う。
あとおばあちゃんが死んだから母には誰もいなくなってしまうなと思うから良くないかなあ。
生きてあげようかな、って思うんだけどねえ。

“ある日クラスの斉藤君が牛乳をこぼした”
“二度ととれないこのにおい”

私は、世界滅亡しろとか他人爆発しろとかそういう風に思ったことが無い。
他人は他人だし自分と違うから何をしていてもその人がそう思うんならそうなんだなと、ただひとつの現象として受け入れるだけだ。
正しいとか間違っているとは思えない。
自分が浮いていても、それによって他人と会話出来ないということも無いし、
ノートに痩せた猫の絵を描くほど切羽詰まってはいない。
すごく楽観的だし何でもすぐ忘れてしまうし。
だから
私には、明確な「欠落」は存在しない。
ぬるま湯ですよ。
2本足できちんと立っていられるのだから。
どぐらまぐらでも読んでたら良いんでしょう本当は。
でも字が読めないからそっと本を閉じるんですよ。捨てる書もありませんよバカには。
町に出るほどアクティヴでもありませんし。

“ホームどこ?”
“あーお家に帰りたい。”
そんなやつはあたりまえに死ね!
“家路に着いた者はサラバ”だ!
お前に帰るホームなんてはなから無いのだから
一生ぞうきんのようにボロボロになってアウェーの中で生きろ!
牛乳臭いままでな!
人生は映画じゃないんだ、リテイク出来ない。タランティーノよりうまく撮ったって無駄なのよ。
世界は、小説でも無いから耳打ちしてくれなくても良い。

毎日が、「おまけのいちにち」の連続で出来ている。
(闘いの日々)と続けば立派なのだけど。
でも今日はそんな気分じゃないね!

こんなブログかけるくらいには「回復」したのだ、と思いたい!

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“プレゼントに土曜日が欲しい”