死について

変な話だが、まじめに書くと
周りで死んでいくものたちはいつもみな自殺ばかりで、病気で死んでいくものに立ち会ったことが実は全然ない。
死はいつでも唐突で、誰にでも平等で
死んだものに対する感情は、かなしみ、怒り、くやしい、つらい、疑問とか、そういったもので、
いつも死んだあとに死を知らされる、それが他人の死である。
病というのは、程度によるが、これは死を予見し、いつ死んでもおかしくない状態、死の瞬間を待っている状態である。

祖母が病気であり、じきに死ぬということだ。
医者が、死という言葉を使わずに、祖母がいずれ死ぬということを丁寧に説明してくれた。
私にはこれがよく理解できず、現在生きている者に対して、親戚どもは、「最期」とか「残された我々」とか、言う言葉を使い、それはなんだろうか?と疑問に思う。
まだ生きているのに?
こうして今私がこの文章を書いている途中でも、どんどん、祖母の時間は死に向かって生きていく。死に向かうのは誰でも平等だが、この場合は意味が少し違う。
冷静に書いているようにみえるが私は大分冷静ではないな。
だが、事実だけをいつでも記しておきたい。
死んでゆくものに対していだく感情について記しておこうと思う。おそろしく丁寧にやろう。
ひとが「病気で死ぬ」というのはかなしいことなのか、怒りは無いし、よくわからない感情だなと思う。自殺者に対する感情とは確実に違う、もっとよくわからない大きな感情だな、怒りとか悲しみとかそういう次元でないように思う。混乱しているのだと思う。
 
音楽に集中したり、仕事をして気はまぎれているのだろうか、急に集中できなくなって混乱が来るけど、「無理したって笑顔は笑顔」である。
 
人が自殺していくとき、死んだものに対して、何かいろいろ思ったがそれはもう細かく思い出せない。記録をしていないからだ。
生きるとは記録すること、お気に入りの石をみつけること、一冊の本をつくること。
死は春を呼ぶ。
私は死ぬつもりでずっと生きてきて、ずっと、死をみていたのに、
なぜ、人は勝手に死ぬのだろうと勝手に思ったりして、
くだらない、文章はくだらない、特に詩は、ほんとうにくだらないものだなと思い、書けなくなった。
何も語らないことを語るために言葉が必要だった。
私はもっと言葉に対して誠実でありたい、語らないための言葉はもう必要が無いと思った。
 
次元は上昇、春色の日曜が訪れる。
 
今日はこのへんで、おやすみなさい、また明日も生きよう。
死にたくなったら、いつでも死にたいってつぶやいてくれよ、死をポケットに注ぎ込もう おやすみ。