地平線がぼくをひき殺しに来るのを待ってたんだ

死んだほうが良いとしか思えんな
死という選択肢しかでてこない
本当にどこにも誰にも必要とされてなくて本当にしんどい
でも早く死にたいと言えるほどにはマシになってきた
こんな風にブログもかけるので
ずっとずっとマシになってきた
頭痛はずっといたい
はやくげんきになってライヴとか行きたい
紙切れが増えてしまう

今日は髪の毛を切りにいった
新しいウォークマン買ったが全然よくない前の方が良かった
ソニーは何かを出すたびによくないものになっていく
本当は何もかも何もいらないんだけど
仕方無く髪を切るし仕方なくウォークマンを買う
仕方無く生きてる
しょうもない
しょうもないからマンガとか本とか読んでる
くだらない本があると燃やしたくなる
くだらないのは現実だけにしろ
なんかいろいろしなくてはいけないことがあるけど全然できなかった
携帯電話まじいらないんだけどとよく思うが無いととても不便
仕方無く不便なふりをしている

早く死にたい

半分人間だもの

仕事が落ち着いてきたのでこのあたりで有給を取ってくれと言われ
今日は急きょお休みすることにした。
何も無い平日は何をするのが良いかというと、美術館へ行くのが正解である。
というわけで美術館へ行った。
疲れた。
平日なので人がほぼいなくて良かったが常設は特に外国人観光客が多く、写真を撮るという行為に夢中で、何も絵をみようともしていなくて寂しくなった。
そういう人は、インターネットや本で観ていれば良いのに、なぜわざわざ足を運ぶのか分からない。
絵の本質を観ようとしないことを嘆いているのではない、非合理的な行動をわざわざする意味がわからなくて不思議だと思う。
画像で良いなら画像でみたほうが理にかなっているんじゃないのと思う。
しかし、写真という証拠を取って、彼らはアリバイづくりをしているのだ。
自分が、日本でこの絵の前に立ったという証拠を作るためにわざわざ訪れる。
みんな何かの罪を背負っているに違いない。

美術館で実際に絵をみるのがすきで
それはなぜかと言うと、みたときの感動が確実に違うからだ。
だが、美術館でもインターネットで拾った画像でも、同じように見えるという人は居て、
そういう人はそういう価値観でまったくかまわなくて、だけど理解はできない。
でも、それが悪いことだとも私には言えない。
そういうものを、すきかきらいかで言ったら大きらいだと思うが、良いとか悪いとか、私に判断できることではないように思う。
価値観は一つではなくて、常に、誰のものでもないのだ。
それを分からない人が多い、価値観が1つしかない人があまりにも多い。
それをみていると疲れる。
私は誰のことも否定も肯定もしていない。
していないのに、他人からは、常に私が何かを否定しているように見えるらしい。
うるせえ


最近は少し気分がマシになってきたように思う
しかし、だいじょうぶ、と言葉にしてしまうとたちまち大丈夫でなくなるので、言葉にしてはいけない。
十分に気を張っている必要はあると思う。
朝起きるたびに絶望で吐きたくなるのは治らないが
それはもう別に、どうでもいい。
ようするに大丈夫ではない。
毎朝着たい服が見当たらなくて非常にこまる。
知らない音楽が聴きたいので何かいろいろCDを買った。
だが、頭痛が痛くて聴けない
毎日電気グルーヴを聴いてしまう。


福沢一郎展「このどうしようもない世界を笑いとばせ」@東京国立近代美術館

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このタイトルめちゃくちゃダサいがどうにかならなかったのか?
「牛」がすきなのでそれを観に行ったがやはり牛は良かった。
その辺の絵はすきだが戦争以降が特におもしろくなくて非常に退屈した。
同じ人の絵かな?ってなった。
最初の方の「くだらなさ」は微笑ましいという感じで容認できるが、あとの方の「おもしろくなさ」は本当にただおもしろくなかった。
個人の感想です。

以前板橋区立美術館の展示で観たときはわからなかったがこうしてたくさん並んでいると
「牛」だけが何か筆の動きが全然ちがくて、なんでだろう、あの絵だけめちゃくちゃ良いんだよな。
ふしぶしで穴の開いた牛、非常に存在として儚いのに、牛は牛でしかなく、画面のすべてで訴えてくる感じが良い。
洗練されすぎないというか、ぱきっとしすぎない所も良いのだろう。
これをフィーチャーした展示をやっていた板橋は非常にセンスが良かった。
ピンク色が綺麗に使える作家がすきだから、福沢は良い。
ピンク色はシュルレアリスムの色だなと思う。
福沢の絵は、常によく晴れた日の日差しをいっぱいに浴びているようなところが、おもしろいと思う。


「MOMATコレクション」は大体が相変わらずという感じだが
春なので春めいていて良かった。
東京国立近代美術館は、所蔵が多すぎていつも同じとは限らないから、観たい絵が必ず観れるわけではない。
北脇昇は2点だけあった。
中西夏之があったのでこれだけでも来た価値があった!うれしい!中西さんは最高!
本当すごいうれしい。中西さんの作品はなんかもうギラギラしてて足元にも及ばなくて何回みてもハッとする感じがして、だいすきだな。
画像や本で見たってだめで、こうして、自分の目で観れることが喜びになる。
私は、自分には絶対に描けない絵画がすきだ。どうしたらこんな風になるのかさっぱりわからないというのがすきだ。
あと杉全直の「轍」もあってうれしかった。いつ観れるかわからんのでうれしい。
この絵も、ピンク色だな、と思う。
あとは、河野通勢の「好子像」がおかしかった。
おかしいな、なんなんだろうあれは。背景というか全体だけども、特に背景の書き込み意味わからんしひとけが多いし画面には昆虫のように人間が張り付いていて、「好子」はお世辞にも美人ともいえず、胸元の飾りもおかしくて、なんとも奇妙で大変良かった。
遠くからみても「変」とすぐわかるけど近くでじっとり観ないと、何が変なのかがわからないという変な絵だ。

どんな人だって百年後は死んじゃうよ

春が嫌いだ。
「嫌い」という断定的なことばは嫌いだが使ってしまうほどには。
空気がきみどり色で息苦しいのだ。
いつもの倍くらいに妙な胸騒ぎがする日は決まって誰かの命日なのだ。
身体にしみついている。
虚無を見つめた生活は気が狂いそうになるが、ただ元に戻っただけだ。
今までもずっと、虚無と共存して来たではないか。
毎日電気グルーヴを聴いている。大変助かる。何も考えなくて済むからだ。
毎日、毎日大事なものたちひとつひとつに、丁寧にやさしく、「お前はここにいらないんだよ」と、本当に丁寧に諭されているような、そういう日々です。
お前の居場所はここではないんだよ、と順番に、丁寧に、ひとりずつ。
言われているような気分なのです。
「わかっているよ」と言っても、いやいや、と言いながら親切心でずっと言われているような、
そういう気分なのです。
そして、そんな風にしか思えない自分が、「まずい」ことを自分がいちばんよく知っているのだから、
もうわかったから。
もう分かってるから、


行きたかったライヴ全部行けなかった。
ハコの生ぬるい空気を今はどうしても吸いたくない。
私のすきな空気は
転換中腕組みをしながら幕が開くのを待っていること。
準備運動をしながら、何も言わずにただ待っている最前列を、うしろから観るのがだいすきだった。

こないだ教えてもらったが
アルルカンのしょうへいのファンのおねえさんは
いくら最前列にいようとも、よくないと思ったらその場で帰ってしまうのだそうだ。
私だって帰りたいと思う。
今でなかったら私は帰る方の人だっただろうと思う。
帰るというのは、それだけ本気だからだ。
でも最近は、帰るまでもないのだった。
帰りたいわ。本当は帰らなくて済むライヴがいちばんいいんだけどね。そんなのは分かっている。


電気の話だが
最近おもしろかったのは
ストリーミング配信で電気グルーヴを聴いていたら突然きけなくなって、どうやら逮捕を受けて配信を停止したという話をツイッターでみて、
さっきまで聴けていたのに、音楽を返せ!というようなことをおっしゃっている方がおり、それが大変おもしろかった。
「音楽を返せ」
そう言えるほどすきならCDやMP3やらを買って所有しなさい。
その台詞を言える資格はあるのか?おもしろいなと思った。
ストリーミングが悪いとは言っていない、「所有」しないことをファンじゃないとか言うつもりはない。
CDを所有しなくてもファンはファンだと私は思う。ライヴに行かなくてもファンはファンだ。
そうしなければ「ファンじゃない」というのは、大変くだらん価値観だと思う。
ただ、「音楽を返せ」、これは面白い。
面白いよな。そこまで言えるほどすきなのなら、金を出して所有したら良かったんじゃないかと思う。うん。
ま、人それぞれだよね、すきの形は。ウンウン。愉快です!
ちなみに「30」でいちばん良かったのは富士山。元々別にすきな曲でないけれどこれはめちゃかっこいい。
富士山から海猫夏あたりまでの流れが特に良い。出てからしばらくはずっと聴いてた。
こないだは久々にVOXXXを聴きたくなって100年ぶりくらいに聴いたが完璧がすぎるな。特にエジソン電。
でもこれをよく聴いていたころはそんなにすきじゃなくて(Aがすきなので。まりん派なので。)、
何でかっていうと当時の恋人がよくTKOテクノクイーンなどを口ずさんでいて、完璧な音楽って、こういう何も考えない大人になったら聴く音楽だよなと当時思っていたからだ。当時から私はひどいやつで、恋人に対してそんな風に思ってしまうところがあって、そういうのは、いつまでも治らない。
私はいま何も考えたくない大人なので電気グルーヴを聴いています。

大人っていうのは、よくないものを「よくない」と言うことができないなんて、
なんて不自由なんだと思っていた。
こういう大人が、電気グルーヴを聴くのだ。
今の私にはそれを「よい」とも「よくない」とも、言えない。


毎日死にたい。
くだらないというのがいちばんくだらないと思うから、この世でいちばんくだらない人間、それは私だ。
ライヴに行きたいな
今は、チェキとかインストとか誕生日とか合宿とかお手紙とか差し入れとかそういうの本当にどうでも良くてただライヴが観たいだけ
それらを楽しめるひとはどうぞ心から楽しんで欲しいと思う、私は無理だというだけの話だ。
現場は現場で完結して欲しくて
だから、こんな風に
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「でももっとやれると思います。お互い頑張りましょう。」
ワンマンツアーの総括を、こんな風にだけ言えるのがすき
これは私のすきな樹さんのブログ。

毎日どうやって死のうか考えていると一日が終わる。気づいたら次の日になっていてまた朝が来る
そういう毎日はかつて幾度もあって、、幾度もあったことだ。
私は去年ずっと怖かったのは、そういう幾度もあった「毎日」がまた繰り返されることだが
毎日「お互い頑張りましょう。」を信じて、毎日、毎日、その日が来るのを大事に過ごしていた。
そういう日々を、私は一生忘れない。



最後にライヴにいったときすごく悲しかったことや嫌だったことを全部本当に全部思い出してしまい
ああもうなんか、なんか
何もできなくなって
また、こんな風に、なんのせいでもなく、「空気」だけで、こんな風になってしまうのかなと思って怖かった。
「いい事しかのこらないよ思い出なんて」、だけど、
楽しいことは私は一生忘れないけど、悲しいこと、許せないことを、こんな風に思い出してしまうのは非常に怖かった。
なによりも、そんな風に思ったことがあるという事実が嫌だった。
ライヴハウスに行くのが怖くなってしまった。

春の空気と同じだ。
身体が覚えている。


最近のことでも書くか
新しい棚を購入した。すぐに全部埋まってしまって、また新しい棚を購入した。
部屋の壁があらかた本棚になったが、それでも収まりきらない。
こんなに本があってもどうしようもないが
こんなに本がなくてもどうしようもないのだ。
最近は、マンガや本を買うペースがまた増えてしまった。
こんなに本があってもどうしようもないのに。


今日は、まだ「大丈夫」なのでこんなふうにブログを更新できた
えらいね
みんな毎日ツイッターとかできて、すごいな、いいな。
私も人間になりたい。


ずっとこんな感じ
www.youtube.com